Legend Story -the heir of the world- 

第壱章 平和な世界イクセリオン -Peace is not happiness-
 Section4 雨の中、燃える焔 



 はじめがいつだったかは、覚えていない。けれど、はじめから聞こえていた。


   *   *   *


 ノエルから街道を歩き、月の森に入ってから三日目になった。湿度が高く、進んでも進んでも景色が変わっているようには見えない森の中をひたすら歩き続けるのは、この森を何度か訪れたことがある者でも気が滅入るものだった。
 月の森はイクセリオン大陸西部に広がる森の総称である。森はノエル北部からブリューネル地方全体を覆い、クリステル山脈の麓まで続く。月の森は召喚術師学校やノエルの周辺のような明るく穏やかな森とは打って変わって、日中でも薄暗い上に凶暴な魔物も多いため、かつては遭難者も多く迷いの森と呼ばれていた。遭難者達が身を寄せ合った結果か、皮肉にも月の森周辺の土地が肥沃だったせいか、理由は定かではないが、月の森には幾つもの村が点在している。
 そういった小さな村々を統括し発展してきたのが、月の森中央部に位置する第三都市ブリューネルだ。ブリューネルは湖を中心に開拓された大きな街であり、農業はもちろん、クリステル山脈から産出される優良な資源などでも知られる豊かな都市である。
 鬱蒼とした森の中を苦労して歩くのも、そのブリューネルを目指してのことだった。

「何でこんなに近いのに、ノエルと違って暗くてじめじめしてるのかしら。いい加減にして欲しいわよ」

 森を歩き続けて三日目ともなると、フェーネも我慢の限界のようだった。何もしていなくても気が滅入る森に、心底うんざりしているらしい。ノエルを出発した頃が懐かしく思えるくらいには、フェーネの機嫌も地に落ちているように見えた。

「文句を言うよりも、ちゃんと足下に気をつけてくれよ?」

「言われなくても分かってるわよ」

 分かってると言いながらも危ういフェーネに、レイドは苦笑するしかなかった。森に入ってから何度か小雨に遭遇し、その度に地面は水分を吸っている。フェーネが隆起した木の根や濡れた草、ぬかるんだ泥に足を取られて転びかける度に、隣を歩くレイドが手を伸ばしていた。フェーネがそれに対して顔を赤くしながら謝る光景は、この三日間で何度も見た光景だった。
 何故顔を赤くするのか、普段のレイドなら尋ねたのかもしれないが、別の心配の種のせいでそのような余裕はない。
 森の中を魔物の断末魔が遠く、重なるように響く。
 レイドは今度は三つかと分析をしながら、少し離れて前方を歩くセレナを見遣った。
 いざ月の森へと踏み込もうとした三日前、森を見たレイドは思わず顔を強ばらせた。月の森に魔物が多いという噂は数年前からあったものの、想定の範囲を超えていたのだ。そして、蠢く魔物の気配に足を止めたのは、レイドだけではなかった。いつもは余裕綽々といった様子のセレナでさえ、一瞬顔が引きつったように見えた。その後事も無げに行こうかと言ったセレナはいつも通りだったと思うが、今ではそれも間違いだったのかもしれないと思う。
 今度は五つの断末魔が聞こえた。遠くからの、場合によっては微かにしか聞こえない叫び声を聞く度に、レイドは顔を曇らせていた。
 セレナはレイドやフェーネから少し離れて前方を歩いている。セレナが月の森に一番詳しく、魔物にもいち早く気がつく事が出来るからだった。とはいえ、ここまで魔物が多いのだから、二人ともセレナ一人に任せるつもりは毛頭なかったのだ。魔物に遭遇すれば三人で協力して迎撃する体制を崩すつもりなどなかった。
 月の森に入ってからのセレナは異常だった。セレナの周囲約100メア内に入ったら、彼女の討伐対象になるのだろう。レイドやフェーネが応戦体制を取るよりも遙かに前に魔物は全滅していた。

「レイド。レイドってば!」

「え?」

 レイドはフェーネに大声で呼ばれてから、やっと足を止めた。考え事をしながら黙々と歩いていたせいか、早足気味になっていたらしい。フェーネから少し距離が離れ、セレナが思っていたよりも近くにいる事に気づいて、レイドは狼狽した。

「ごめん」

「いいわよ。でも、レイドこそ足下には気をつけてよね。心ここにあらずーって感じだったわよ。気持ちは分かるけどね」

 最後の言葉は尻すぼみだった。少し困り顔のフェーネに促されて、レイドは再び彼女の横を歩き始める。

「心配、なんだよね?」

 フェーネはまるで独り言のように呟いた。答えを求めていないのだろう。フェーネの視線の先には、炎の矢を放つセレナの後ろ姿があった。
 悲しい事に、現在のイクセリオンは魔物で溢れている。魔物化の原因が分かっていない以上、増え続ける魔物を人間が全て討伐するなど不可能だった。だから、人間は我が身に危機をもたらす魔物のみを倒すしか出来ない。それはいくら強い戦士であっても同じで、それが常識だった。
 しかし、月の森に入ってからのセレナは魔物を掃討する勢いだった。いくらセレナが常識外れとはいえ、こんな事は初めてだ。

「夜は寝ようともしないし」

 野宿の際にセレナが夜通し見張りをするのは通例だったが、ここまで無理をしているようにしか見えないセレナに見張りを頼むことは、流石に二人も反対した。だが、結果は当然のように却下だった。セレナの動きが鈍ったり、少しでも疲れているような様子を見せてくれれば、レイドも強制的に睡眠を取らせる口実が出来るのだが、今のところセレナに落ち度はない。
 何度目になるか数えることも飽きた断末魔が聞こえる。

「ねえ、そろそろ休憩にしない?ちょっと疲れたし。今日は朝からずっと歩いてるから、お昼にしようよ」

「それもそうだな」

 今日も昨日から続く曇天だったが、特に雲が厚いように見えた。ただでさえ暗い月の森は一層暗くなっている。おかげで太陽の位置がよく分からないが、そろそろ昼時のはずだ。

「嫌な風だな」

 不穏な風が上空の黒い雲を運んでいるのが分かる。数時間後には嵐が来るかもしれない。
 精霊の月もじきに終わる。イクセリオンは風雷の月を迎えると、雨季になる。イクセリオン全体の降水量が増え、次第に気温が下がっていくのだ。雨季を終え、寒さを感じる頃になると雪が降る。それが冬の知らせだ。北方のアレクサンドリア地方やアラフ地方は雪がほとんど降らないが、ノエルなどは早くから雪に覆われる。
 月の森以北からクリステル山脈にかけてを指すブリューネル地方は、雨季になると荒れた天候が続く事で有名だった。月の森で嵐を凌がなければならない事態は避けたいと、頭の隅で思う。

「セレナ、そろそろ休憩しようよー」

 フェーネが敢えて明るく大きな声でセレナへと呼びかける。セレナは二人が立ち止まった事に気がついていたのか、足を止めて待っていた。

「セレナ?」

 反応のないセレナに、二人は首を傾げた。先程からあれだけ遠く離れた魔物を倒しているのだから、近くにいるフェーネの声が聞こえないはずがない。
 やはり、体調が悪いのだ。レイドは今までセレナが風邪をひいて寝込んだりといったところは見た事がなく、むしろ看病してもらった経験しかない。セレナの不調というものがどういうものなのかは分からないが、森に入ってからの異常行動といい、無理が祟っている可能性は十分にある。
 心配も頂点に達しつつあったレイドは、慌ててセレナへと駆け寄った。

「分かってる。分かってるから・・・・・・」

 セレナは俯きながら片耳を塞ぐようにして佇んでいた。レイドも近づいてから気がついたが、セレナからぽつぽつと零れる言葉は誰かと会話しているかのようだった。当然だが、周囲にはレイドとフェーネ以外の人間はいない。
 セレナの声は淡々としつつも、レイドが今まで聞いた事がないくらいに悲痛なものだった。何故今まで気がつかなかったのかと、レイドは自らを責める。
 セレナは近づくレイドにも振り返らないままだった。このまま何処かへ行ってしまいそうな気さえして、レイドは焦燥感に駆られて彼女に手を伸ばす。

「セレナ」

「うるさい、黙れ」

 レイドが伸ばした手は、セレナの拒絶の言葉と共に振り払われた。レイドに続けて心配の声をあげようとしていたフェーネも、手を振り払われて呆然としたレイドも、喉が引きつって声が出せなくなった。
 世界から音が消えたような心地がした。
 荒れ始めていた風にざわめく木の葉の音も、鳥や虫の声も、どこからか聞こえていた微かな魔物の声も、音という音全てが掻き消えた。突然の音の消失に、時が止まったかのような錯覚に陥る。通り抜ける風が、音もなくセレナの髪を揺らすのに違和感さえ感じた。
 振り返ったセレナとレイドの目が合う。焦点のあった蒼の瞳がレイドを認識すると、怯えたように一瞬だけ震えた。

「ごめん。二人に言ったわけじゃないよ」

 いつもの調子に戻ったセレナの声で、ようやく音が耳に届き始める。時が流れ始めたのを感じても、レイドは払われた手をしばらく動かす事が出来なかった。


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